痛みと記憶

目尻に皺が寄っている。じわじわ年波寄っている。こんばんは。山崎です。

兼業主夫の毎日はなかなかに忙しく、寄る年波を気にしてる余裕もなかなか無いのですが、何にせよ、やる事があるというのはいい事ですね。暇を持て余しても、私には、たぶんろくな事は無いでしょう。忙しい日々の合間を縫って、一つでも二つでも、何か有意義な事がしたい。そういうものにわたしはなりたい。

梅雨が明けて夏が来たら、娘は五才になります。もう一人前だなあ、と、最近よく思います。もちろん、まだまだ子供なのだけど、表情とか動きとか声とか、もう立派なもんですよ。小さくても一人前。キック力なんかも、大人にダメージを与えうる力になってきた。保育士さんも大変だ。

五才の夏といえば、私にとっては、指の先を切断する怪我をしてしまった夏でして、私の一番古いクリアな記憶は、その時の事です。どんな天気だったかとか、誰がいたとか、泣きながらどこからどこへ走ったとか、今でもはっきりと思い出せる。

お下がり自転車に乗って、舗装されたばかりの道を走り、毎日のように何処かへ出かけていた私はすごく社交的で、友達がたくさんいた。だけど怪我した事によりまして、生活は病院と家ばかりになってしまった。包帯、消毒液、ホーローの洗面器、注射針、白衣、自転車を漕ぐ母親の後ろ姿、包帯を外す看護婦さん、薬を盛ったヘラを持ったお医者さん。そんな情景が今でも浮かぶ。

あんまり危ない事とかはしない臆病な子供だったのですが、信じられない位ぼんやりした子だったので、怪我は多かった。鮮明な記憶はだいたい痛みとセットですね。よく嗅覚と記憶の関係を脳科学で説明する話がありますけど、痛覚も関係あるんじゃないですかね。どうでしょう。

 ある程度、子供は怪我をするもんでしょうけど、我が子に痛い思いはして欲しくないものですね。