三陸紀行



三泊四日で、気仙沼本吉町という所にボランティア旅行に行ってきました。バイクの後ろにテントや寝袋を積み込んで、十年程前、初めてのツーリングに出掛けた時と同じ、東北へ。


本吉町のメインの集落は、海辺から離れ、少し内陸に入った場所にあるので、崩れている建物が若干目には入るものの、震災から五ヶ月が過ぎた今ではかなり落ち着いた感じで、こじんまりとした田舎町の雰囲気が素敵な場所でした。ボランティアセンターのある、町民体育館の芝生の広場がテント村になっており、そこにテントを張って、少し緊張しながら一晩を過ごした翌朝。僕はガレキ撤去の作業員として、初めてのボランティア作業へと向かいました。


海辺の作業現場へと近付くにつれて、徐々にというより、いきなり様相を変える風景。散々写真や映像で見ていたはずだけど、実際に目にすると、やっぱり、かなりショッキング。ガレキの町の中に、一本線を引いたようにひた走る45号線には、地元の中学生が制服着て自転車に乗ってたり、ランニングのおじさんが犬の散歩してたりするんだけど、東京なんぞから、好き好んで肉体労働をする為にやって来た余所者には、異様な風景にしか見えない。どんな時でも、どんな場所でも、人の営みに違いなんて無い。なんて事ですかね。ただ、どこへ行っても、蠅の数が半端ない。蠅の営みに異常あり!蠅の王様地獄のエリート!なんてね…


結局延べ二日間、炎天下でガレキ撤去の作業をしたのですが、こんなに重いものを持った事は、人生で一度も無い!と思う位のものを運んだりしました。バラバラになった電柱なんかが、田んぼの真ん中に転がってるんですよ!畳一畳くらいのアスファルトを、畑の中から、引き抜いたりするんですよ!一輪車にコンクリ積みすぎて、壊れたんだから!まじで!


地元の農家のおじさんなんかもボランティアに来ていて、僕らみたいな初心者を指導しながら、率先して作業をしているのですが、作業時間の合間に、震災すべらない話、みたいなのを色々披露してくれるのです。電線を掴んで津波に耐えながら、助けてくれと叫んでた人が、次の日に、電線に絡まったまま上の方で死んでた、なんてエグイ話をして、僕らがショックを受けて言葉を失う様を見て、何となく、どや顔をしてたりするのです。


そんな現場の休憩時間、僕らが作業していた田んぼの上の丘で、礼服を着た人達が大勢集まり、慰霊碑を建てる式典を行っていました。合掌に合わせて、僕も含め、全員が手を合わせた後、さっきまですべらない話を披露してたおじさんが、真顔で話してくれたのが、そこに避難所があった、という話でした。この地域に住む人達の多くが、あそこに逃げて来て、津波にやられて亡くなった、という話。その日、一緒に作業をしていたおばちゃんが、それじゃ、避難所の意味無いじゃない、と言った言葉に対して、おじさんが返した言葉が印象的でした。「誰もあんなでかい津波来ると思わねえっぺよ」。想定外…でも、電力会社はやっぱり、言っちゃいけないよね…


二日目の作業が終わった後、隣町の南三陸町で行われる花火を、本吉町からバイクに乗って観に行ったのですが、その気仙沼から南三陸までの道中の光景を、僕はたぶん一生忘れないと思います。言葉が無いというのは、あの光景の事です。僕みたいに暇のある方は、ボランティアでも旅行でも何でもいいので、一度自分の目で確かめてみるべきだと思います。本当に、言葉では説明できません。


三陸の地元の人達や、ボランティアの人達に紛れ込んで観た花火は、打ち上げ場所のすぐ近くで観る事ができて、大迫力でした。翌朝に、関西から来ているベテランのボランティアの人にその話をしたら、凄くうらやましがられました。「ええ記念になったでえ!」なんて…ここで、僕のすべらない話を一つ…


花火を観ている時、僕の隣に、母子とお婆ちゃんという、地元の人らしき三人組がいました。打ち上がる花火を見つめて、感慨深そうにお婆ちゃんが呟きました。


「やっぱり、今年の花火は特別だねえ…」


その横で、興奮しすぎた感じの4、5才の男の子がはしゃぎまくります。


「すごいぞ!地震だ!地震みたいだ!ボーン!ボーン!!」


「黙らっしゃい!静かにしなさい!」


お婆ちゃんは、孫を一喝していました。子供って残酷だよね。